私のこの構想、この提案を、無視しても構わない。
しかしながら、今現在も不当に奪われ続ける命と、全世界で本当に築かれなければならない安全を、無視し続けたいと言う訳ではないであろう。
現状を変えるも変えないも、今を生きている我々自身に他ならない事は、忘れてはならない事である。
今ここに示す「新世界政府機構」は、遅かれ早かれ、必ず人類が自ら選択し実現して行かなければならない事柄の一つである。
人類は、いつか必ず実現化しなければならない。
全ての国々、地域、組織から、武器・兵器・そして軍事力を没収し、新世界政府機構において軍事力を統合し、法に基づき全世界の安全を実現し維持する本構想において、現実に損をする者など誰もいない事を理解して欲しい。
個々の国々や地域や組織は、この構想が実現し機能することで、損害を受ける事など何も無い。
個々の国々や地域や組織の主張や要求は、新世界政府最高裁判所において堂々と主張すれば良い。
国際的に公平公正な、実行力のある判決を求める事が出来るのである。
無論、新世界政府機構が実現化し機能しても、人類の、人間の争いが無くなる事は無い。
但し、人類の、人間の争いは、互いが武器を持つものから、国際社会に公正に築かれた、法に下に争われ、法と歴史事実によって公正な判断が下され、国際社会が注目する新世界政府最高裁判所の国際法廷での真剣な主張になるものとなる。
各国においては、新世界政府機構の全組織を築き、維持する費用の負担は発生する。
しかしそれらは、自らが軍事費と積み上げて、武器と兵士を維持し、より高度化・肥大化させ、相手を威嚇し、場合によっては交戦し、軍隊のみでなく国家・国民を疲弊させて傷つけ合う、そのための準備と、実際に国を疲弊して行う戦争行為に比べれば、負担されるものの大きさは遙かに違うものとなるだろう。
個々の人民は、いずれの国家に所属していても、新世界政府機構によって、不当に生命を奪われる事、不当に人権を侵される事に対しては、助けを求め、守られる事となる。
新世界政府機構は、全ての人民の生命と人権の保護を、何より第一の目的として存在しているのであるから。
そして我々人類の尽きる事なき興味と探求は、宇宙へと向かう大開拓時代へと入って行くであろう。何故なら、人類の前には、この地球よりも、比べようもないほど遙かに大きな未知、未開の宇宙が広がっているのであるから。
人間が、これまでの歴史の中で新天地、新大陸を目指して進出発展してきたように、宇宙という新天地、新大陸に向かって動き出さないはずがないのである。
小さな星の中で、無益で無駄な争いに血相を変える時代は、やがて終わりを告げる。
活躍の場は、より大きな宇宙、そして、より小さなミクロの世界まで広がって行くのである。
非常に大雑把に言って、私は、「世界平和」であるとか「世界平和のための運動や活動」と言ったことに対して、概して静観的な者のうちの一人である。
いや、むしろ私は「世界平和」や「世界平和のための運動」というものに、ともすれば懐疑的ですらある。
その理由は、これまでの「世界平和」という言葉、概念、そしてその活動は、具体的なプランが無く、構築し得る現実とかけ離れすぎているからである。
それは「愛の世界」の実現を唱える如きものの様であって、確かにそれが出来れば素晴らしい事だが、人間には嫌悪や敵意、憎悪が、愛と隣り合わせているように、喧嘩や対立、争い紛争、戦争というものが、単に叫ばれる「平和な世界」にも絶えて消えて無くなる事はないからである。
「犯罪の無い世界」は出来るはずがないように、「平和な世界」と言うものも、理想としてはあるが、単なる主張、宣言の類の積み重ねでは築き得るはずがないものである。
「世界平和」、即ち世界中が平和な社会というのは、それを望み強く主張する人々の願いではあるが、実現のための具体的なプランや計画が抜け落ちている場合が多く、そこに叫ばれ、主張されているのは、「望まれる状態」であって、機能ではない。構造ではない。
単に軍備の縮小や核の廃絶の理想を求め、それに一喜一憂し、その先に世界平和があると考える事は、土台や柱のない、力学構造を持たない家を描いて、それを求めているようなものである。
確かに楽しいであろう。確かに夢のようであろう。しかしそこには誰も住み得ない。人間の本質、人間の本質に潜む危機を考えていない、考える労苦を避けた、実現の工程を持たずに、望ましい理想だけを描いた世界なのである。
では何を考えるか。
私が考えるのは、「世界の安全」を実現するために必要な構造と、その構築と発展と保持である。
「世界の安全」と「世界平和」。
同じではないかという者が居るかも知れない。
確かに同じように捉える事が出来るようだが、「安全」と「平和」は全く違う。
「平和」とは先ほども言ったが状態であり、理想である。
しかし「安全」とは、構築する故に成り立つものであって、現実の機構である。
よしんば「平和」と「安全」が同じだと考えるにしても、それらの確保のためには、話し合いや同調による心理的満足によって構築できるものではない。
それらを確かなものとして成り立たせ、実現するには、それを裏付ける具体的な「法」と「力」がどうしても必要となる。
「安全」を実現するためには、具体的な「法」を整え、その「法」に基づき、法を守り、実行する具体的な「力」をきちんと統括統御していかねばならない。
トップページでも書いたが、我々人類の発展は、もはや対地球に於いてさえ影響力を持つほどになりつつある。人類の力で、地球の様々な事象を変化させる事が最早可能となってきている。しかもその変化は、我々人類にとって望ましい方向ではないベクトルを向いている。
無論、それ以上に、我々人類の手に負えない事象は圧倒的に多いのだが、少しづつ人類の所業が地球に影響を与え得るだけの潜在的な力を有し始めている。
そしてこれからの人類、これからの人間は、単に身近な社会の安全にばかり目を奪われないで、地球規模の「安全」を考え、構築して行かなければならない。
これは、誰も否定出来ない事実である。
「核廃絶」を唱える人がいる。
日本は現在、世界で唯一、「兵器として使用された原子爆弾」による被爆国であり、その意味においても単なるスローガンを超えて、命の問題として核廃絶を唱える人がいる。
私も広島や長崎の原爆記念館を見たことがある。時折テレビ番組等の特集で、原爆による当時の被害状況、原爆投下後の100分の1秒かそれ以上ごとの原子力エネルギー、原爆のエネルギーの変化の様子の科学的シミュレーションなども驚きをもって見たことがある。
戦争自体が、人間による悪魔の行為であると共に、原爆の使用もまた悪魔の行為であると思う。
しかしその全てが、やはり人間が行った行為に他ならないものであることを、私は忘れてはならない事だと思う。
「人間とは、そのような行為を行うものだ」と言うことを念頭から外して、そこから何かを始めようと思っても何の力にもならない。
「悪魔の行為」は他ならぬ「人間の行為」で、即ち人間の本能に根付くものであることを省いてしまって、悪魔の行為を糾弾しようとしても、単なるきれい事の、自己満足を出ない批評にしかならない。
本当に悪魔の行為を糾弾し、悪魔の行為を制止し、抑止しようと言うのであれば、悪魔の行為発動の仕組みに則って対処を考えていかなければならない。夢想的な理想主義の清楚なる意見では、それら人間の本能を制御する事に踏み込んで行くことはできない。
まず、「核」も「軍備」も無くなる事はないと言うことを認識しておかなければならない。
核も軍備も無くす事が出来ないと言うことを、人間の歴史の定理として持たねばならない。
無論、基本的には縮小することすら出来ない。
過去の歴史において、軍備が縮小されたことがあっただろうか。
私は歴史を詳細に知る者ではないけれども、自発的に軍備が縮小された事は、歴史上恐らく無いのではないだろうか。また、仮にあったとしても数え切れないほどの軍備の生成に比してしまえば、ほぼ皆無といってよいほどの比率であるだろう。
そしてまた、人類を100回死滅させられるだけの核を、50回死滅させられる分に半減したところで、それを軍縮と呼ぶ事が出来るであろうか。
日本は太平洋戦争で敗戦し、軍隊は解体され、その後時間を経て、自衛隊という形で限定された軍備を保有した経緯はあるが、それは自ら望んで行ったものではなく、戦勝国により解体させられ、戦勝国との安全保障の確立の中で保持を認められたものであり、日本人自らが積極的に平和を悟り、誰に言われるでもなく自主的に軍隊を解体、縮小したものではない。
人間、人間を内包する社会や国家は、基本的には、兵器や軍備の縮小を理想を描きそれに従って行うものではなく、より大きな外部の力や、財政破綻によって、解体されたり縮小を余儀なくされたりすることはあっても、自らの強い意志でそれを自発的に行うことは、隣接する国々の友好が、未来永劫に保証されているというものでないところにおいては、望み得るものでは無いという大前提を認めないままでは、机上の空論のみが進んで行くに過ぎない。
そして私は思う。「核」も「軍備」も、個々の思惑が錯綜する中では、無くしたり縮小したりする事は出来ないものだと。
ではどうするべきか。無くしたり縮小したりできないものは、統合する以外に方法はない。
安全な社会、安全な国際社会の構築という目的の下に、軍備も兵器も、勿論核兵器も、集めてしまうのだ。
そして、法を築き、法に基づき運用するのである。
廃絶するために集めようとしても、決して軍備も核も、集まる事はない。
我々に今後求められるのは、その運用方法のみである。
難しい事を単純に言ってしまったが、解体も縮小さえも出来ないものは、それを出来ないことを認め、それ以外に方法を求めなければならない事を理解しなければならない。
そしてむしろ、そこになら方法があることに気付かねばならない。
人類には、新たな組織、より大きな組織が、既存の軍備を没収統合し、軍備を集約統合してきた歴史は存在するのである。
新たなる世界政府、「新世界政府機構」。そんな夢物語、眠ってから勝手に見てくれ。
そう思うのが当然だろう。
しかし、本当に人間社会、人類はこのままでいいのであろうか。
「国連」を「錦の御旗」と戴いて、未来永劫「国際紛争も人類の安全も国連に任せておけば大丈夫」と、本当に思い込んでいないであろうか。
もう国連は、時代遅れ、古き時代の悪しき遺産でしかない事に気付き、新たなる望ましい世界政府、「新世界政府機構」を望み、構築していくべき時代は来ている。
人類の歴史において、時代の中に生じた「試作品」に過ぎないのだ。
しかも、欠点だらけの「悪しき試作品」に。
国連自体は、常任理事国を中心とした議会によりその方向性が議論されるが、議会は各々の国家の利益代表者からなっているため、全世界、国際社会の安全や、その為の管理や行為に対しても、自国の利益や立場が優先し、本当の意味で全世界、国際社会の公平、公正、平等に根ざした行為の選択が行われる事は望み得るものではない。
そしてまた、全世界、国際社会を統御し、その拠り所となる「機能する厳正な法」すらない。
「5大国一致の原則」である。
米、英、仏、中、露。この安保理常任理事国の5つの国の意見が一致しなければ、
全ての議案に対して否決出来るという摩訶不思議な原則である。
全世界で如何なる事象が発生しようと、その収束、解決をどれだけ多くの国々が望もうと、この5カ国の中に反対者が1つでも存在すれば、全て無効とされてしまい、それ以上誰も解決に向けて進む事が出来ない、不可思議極まりない「法」である。
この原則に関しては、いつ如何なる場合でも「機能する厳正な法」であり続け、これからも未来永劫機能し続けるであろう。
国連があり続ける限り。
そのような現実の中、日本を始め、多くの国の「良識ある人々」は、しばしば「国連主導の下」と、「錦の御旗」をさも大事そうに恭しく掲げるが、結果はいつも惨憺たるもの。
争議、紛争、戦争の解決どころか、国連内は二分、三分され、安保理常任理事国同士が反目・対峙し合い、解決どころか、争議・紛争・戦争の相対する当事者に別々のテコ入れを行い、武器を供給し、部隊を投入し、解決どころか火種を拡大化、複雑化、長期化させてしまう事も、皆さんが押し戴く「国連」の偽らざる、本当は誰もが知っている「本当の姿」ではないか。
国連安保理で何も決まらず物別れになっても、「国連主導の下」と掲げた者達は、自分達が掲げた事も忘れ、望むべき結果、期待した結果すら忘却し、国連の伝家の宝刀「拒否権」によって、いつものように物別れとなり、望むべき結果が得られない事から目を背けて行くのが、馴れきった当たり前の事となってしまっている。
余りに馴れきっているため、疑念も持たず再び三たび、「国連主導の下」と繰り返しては結果に目を背け、その限りないルーティーンから抜け出すこと、その必要さえ忘れ切って、最早気付きさえせず、麻痺してしまっているのが現状だと言える。
「国連改革」と高名な知識人達は言う。
ニュースキャスターはその言葉でニュースを締めくくり、自分の責務の任を解く。
数十年以上続く手垢の付いた意味のない言葉だ。
国連を改革できる者、変える事が出来る者は、世界中何処にも存在しない。
本当は、誰もがそれを知っているのに。
国連の中核国とされる「安保理常任理事国」にも国連は変えられません。
彼らは国連発足以来、常に国連内で綱引きを行い、あらゆる紛争、戦争を前にしても、権力、利権、威信、主導権の綱引きに躍起になり終始し、その争いは水面下でも常に絶える事はありません。
国連事務総長を始めとする、各部署の事務方責任者は、、「国際エリート」に専任され、その名誉と好待遇・高給に浴し、その保守を第一とし、波風立てた改善など行えば、一気に風当たりが強くなり、安泰である職務・地位からの降壇を告げられるでしょう。
彼らは、各管轄職務において、望むべき結論が達成できなくとも、分断に終始しようとも、その責任を追及される事もなく、統括能力を問われる事もなく、「残念だ。」「益々の国際協力、国際協調が必要だ」とブランドスーツに身を包み、居住まいを正し、由々しき問題だと感想を述べれば、その役割が達成される。
民間企業・各国の行政組織とは大きく違うのだ。成果を上げずとも身分も地位も保障されるのである。むしろ成果を上げようと微妙な利権や利害に踏み込み、事を顕かにすれば、身分も地位も失う事となる。
国連を変えられる者が何処にいるだろうか。
安保理常任理事国もダメ。国連事務方最高責任者もダメ。
非常任理事国10カ国、国連加盟国は言わずもがなである。
世界中何処を探しても、国連を改革できる者、変えられる者は存在しないのが絶対的事実なのである。
高名な知識人達も、ニュースキャスターもその事は見ないようにしている。
国連を変える事が出来る者は、この世界の何処にも存在しません。
この先も、この状況は変わる事なく永遠に続きます。
「国連」が存在し続ける限りは。
「国連批判は反体制的であり、社会的にマイナスイメージを付される」と恐らく誰もが、言葉にならない段階のイメージで思い込み、それを行う事に自動ブレーキがかかっているのが、現代の現状だと言えよう。
国連への批判を我慢した時、批判を制止した時、誰がこれを喜び、誰の利益になるのかを。
今の国連が批判されない事にほくそ笑み、その権利を手放さない者は、「拒否権」を持つことで、決議に従わずにいることが出来る、自国への批難を「事実無根」「内政干渉」と一蹴してそれ以上の干渉を拒否出来る、安保理常任理事国5カ国、もっと言えば、その為政者と為政者と利害を一にする者達に過ぎないのだと言う事を。
彼らは、国連が他者に介入されない威厳を有し、「拒否権」が当然の権利として認められ、これらが保障されている限り、全世界の中で「アンタッチャブルな存在」で居続けられる。
非人道的行為・施策、それが海外に伝わり批判を受けても、安保理の拒否権を楯としたこれ以上ない不可侵の権利で、「事実無根」「内政干渉」と声を荒げれば、誰からもそれ以上の批難を受けずにいられるのだ。
国連を批判した者にマイナスイメージを持たせるのは、国連で発言権・拒否権を持つ安保理常任理事国の為政者とそれを取り巻く者達、国連の無力さを知っていながら、その権威を侵すことが出来ない者達、その威厳を尊び侵すことを許さない盲信者と、実際に国連の活動で救われた人々だろう。
これは、実は全人類約80億人の中のほんの一握りの人間なのである。
現代のこの一時、この一握りの人間に保守される権利・主張により、国連批判は反社会的なるものと、暗黙の共通認識が植え込まれ、多くの人間が忖度し黙り込むのが現在の構図である。
「これは国連でしか出来ないことです。」と声高に主張する人がいるであろう。
しかし率直に言えば、その者達が一番いけない。
成果を上げた僅かばかりのことに基づき、国連の「意義」を声高に主張するものだから、本当の成果、人類が望むべき成果の欠片も上げ切れていない「国連」という「欠陥だらけの悪しき試作品」の存在意義まで正当化していることになる。
一利を持って百害を隠す如きものである。
無論、その一利は恐らく尊い。
しかし百害を隠す一利であれば、敢えて切り捨てなければならない事がある。
切り捨てた一利は、すぐさま別の形で引き継げば良いのである。
一利のために「国連」全てを守る必要など無い。
守らなければならないのは「国連」ではなく、世界が待ち望む、実行力のある安全なのであり、その実践と実現なのである。
新世界政府機構が構築されれば、今のように、紛争や戦争の合間を縫って、牽制し合う大国の圧力の合間を縫って行われる活動ではなく、全世界の恒久の意志として、最大限の救済、対処が可能となる。
今の「国連」が活動を開始してから75年以上。
もう新たなる「真の世界政府」が胎動を始めても良いのだ。
いつまでも、遙か75年以上も前の決め事に縛られ続ける必要はないのである。
国連が千年後も在って欲しいと思う人は、本構想を無視しても良いだろう。
然し、千年後どころか百年後すら、今の国連のままでいて良いわけではないと思う方は、本構想を支持し、広めていって欲しい。
世界には既に「新たなる世界政府」を希求し公言し始めている人もいる。
私は「新世界政府機構」として、その理念、構成、組織、そして核となる具体的法規を明文化しこれを現し、願望、希望、願いを述べるのではなく、具体的に動き出し、働きかける。
可能であると。
過去、人間は、偉大なる事象を起こし、実際に築き上げてきた。その結果が現代となっている。
我々は、過去の歴史的事実の中にいるのではない。
現在の歴史的事実の中にいるのだ。
現在の歴史的事実を築けるのは、現在にいる我々自身以外にはいない。
我々が現在の歴史的事実を築けるのは、今だけである。
あと数十年も放っておけば、やがて我々は世を去り、どれほど後悔しても、もう手も足も出せなくなってしまうのである。
新世界政府機構の実現、何か不都合はあるだろうか。
「国連の時代」はもう終わらなければならない。
国連は、遙か75年以上前、第二次大戦後急ごしらえされた不完全なもの、「修正点を顕わにした悪しき試作品」に過ぎないのだ。
未来永劫奉るものではあり得ない。
時代は「新世界政府機構」を迎えるべき時となった。
遠くて近い話をしましょう。
いずれ地球には、人類の生存に係わる規模の隕石が衝突するでしょう。
何年後か、何百年後か、何万年後か、何百万年後か、その時期を確定出来る人、確定出来る現象は今現在ないが、地球、月、その他惑星に刻まれた歴史が、如実にそれを物語っている。
近年でも、木星、太陽に隕石が衝突していった現象が確認されている(YouTubeでもその映像を見る事が出来る)。
今のままではダメなのである。
各国が、個別の努力と対応を考えながら、幾つかの国々で協力し合おうと申し合わせている状態では。
新世界政府機構の「最高法規 第13条」、「最高議会 概要」「最高議会法規 第23条」、「宇宙へ」の所では、隕石の衝突の、観測と予測と回避の方法及び技術開発を、新世界政府機構の必要欠くべからざる責務として明文化している。
国を挙げてではなく、全世界を挙げて、現実問題として真剣に対応していかなければ、いつかは誰にも分からないが、必ず来る地球の大災害に対処する事出来ず、人類絶滅の時が訪れるであろう。
自然は非情である。人間の都合など待ってはくれない。
隕石衝突の回避。分かってからでは遅いのである。既に準備を行っていなければならない。
分かった時には既に準備出来ていなければ、人類は滅ぶしかないであろう。
人類には、遙か遠い小惑星に到達し、着陸する技術は現在既にある。
「はやぶさ」然り「はやぶさ2」然り。
他にも各国の、月、火星を始めとした惑星への着陸調査等、対応・応用出来る技術は持っている。
ただ、地球にないのは、宇宙への危機意識と、危機回避には全世界の技術が集結されなければ対応出来ない、場合によっては間に合わないという意識と、その意識に基づく行動だけなのである。
「国連」下に脈々と今も息づく東西対立構造は、宇宙技術を秘匿し合う。何故ならイコール軍事技術であるから。
如何なる危機感も、如何なる提携も、国連が世界政府の「代行」を行っている限り、お互いの技術と計画を秘匿せずに開示し合う事はない。
最重要防衛事項だから。
新世界政府機構が築かれず、世界が国連を押し戴く限りは、人類は衝突してくる隕石に対して指をくわえながら、場合によっては絶滅するしか無いと言える。
危機感を煽るのではない。持つべき危機感を有し、それに対して、具体的行動を持たなければならない至極当たり前のことを述べているのだ。
「国連」は、大国の思惑や利益、その牽制の中、その間を縫うようにしか働き得ず動き得ないものであり、残念ながら、この様なものが権威然として人類の前にあったままでは、本当の国際社会の安全、今も不当に傷つけられ奪われ続けている人民の生命と人権の保護は、永遠に為し得ない。
最早「国連」は、人類をつなぐ唯一の大看板ではあり得ない事を、誰もが知っているはずであり、知るべきである。
「もしかして、必要なものかも」と少しでも思って頂ければ幸いである。
日本には、アメリカ追従主義と国連主導主義のようなものがあって、日本は、政治的なものは国際社会で単独で主張することが出来ない貧弱な国家である。
日本の政治家は、自国民に対しては、相当に強気な事や強制的かつ高圧的な事も言ってのけるが、他国や国際社会間では、言いたい事の一つも言うことが出来ない。
辛うじて朝鮮民主主義人民共和国に対して、「拉致した日本人を帰せ」とまともな意見を相手に向かって述べたが、「外国」に対して言わなければならない事をはっきりと言ったのは、戦後初めてのものではないだろうか。
それ以外は、官房長官が出てきて「遺憾に思う」が関の山で、海外にその遺憾に思う事を働きかけたことはついぞ記憶にない。
別に、何かにつけて海外に向けて喧嘩を売ってこいと言うことではないのだ。
ただ、相手が外国となると、自国の中でモゴモゴ言ってお茶を濁すだけなのが、日本の政治家の全員の姿だ。
無論、主張すべき事を主張することと、無配慮に敢えて混乱や争乱を招くように発言する事は違う。喧嘩を売れない情けなさを言っているのではない。正当な主張すら出来ない情けなさを言っているのだ。
日本に於いて、そして国際社会の常識に鑑みて、正当に主張すべき事を何れの場合でも行えない、日本の政治家の弱腰に対して言っているのだ。
我が国日本において、今現在世界に対して誇れるのは、日本人の勤勉さ、誠実さと、世界各国に対して、総じて極端な偏見や差別心を持っていない事であろう。
無論当然の事ながら、全ての日本人がそうであると言うわけではない。中には勤勉さの欠片もなく、誠実さの微塵もなく、極端な偏見や差別を平然と行う者もいる。犯罪の無い社会が無いように、例外のない事柄は無い。
日本が第二次世界大戦で敗戦し、占領され、軍備を解体され、しばらくは旅客用の飛行機さえ自国で製造出来ないような規制を受けながらも、資源に乏しくも、焼き尽くされた中から世界の先進国に肩を並べて発展し得たのは、先の日本人の気質と、それを母胎とする日本的経営に起因するものが大であると考える。
日本の政治家達は、海外に対して自己の主張を行うことが下手で、それは技巧的なものであるとともに、その核となる信念と決意が欠如していると言えよう。
日本の政治家には、外国に対して、自己の信念と決意にもとづき意見を述べ変革を迫ろうというものがないのである。
しかしながら日本の経営者、民間人達は、日本的経営を海外においても妥協しないで持って行くことが出来る。今に至り世界に通用する日本企業がいくつも存在することは、矮小な政治家に比して、日本の個々人の目指すものが、遙かに高いものであることの現れの一つではないかと思えてならない。
世界的に見て貧弱な日本の政治は、徒党を組んで、狭い国内での権力争いをしてきた政治家の、「お家の事情」に固執し囚われてきた、理想より先に、保身に走る椅子取りゲームと離れられない強迫観念の所産と言えよう。
簡単に言えば、日本の政治家には外交力がないのである。外交力がないから、外に対して優柔不断で、国内に対して犠牲的な事柄を迫る。国民に犠牲的なことを迫っても、自分を犠牲にするところがない。自己を犠牲にして国民を保護し、かばうところがない。
政党の各議員は、党の存続を第一とするから、その所属する政治家が、勝手に何かを思いこみ、行っては困るのである。行えば四方八方から潰しにかかる。これも日本の政治家を矮小なものにしている。
最近になり、地方自治体の長となる知事の中に、既成概念を打破して必要な改革を行おうという政治家が数えるばかりは出てきた。その全てが良いと言うものではないし、眉をしかめざるを得ない者もあるのであるが、ある種の方針を明確にし、その実践を問うてくる姿勢は評価し得る。むろんその方針に賛成するという意味ではないが。
日本的な政治、即ち信念や決意を政治の中には持ち込まず、絶えず他との兼ね合いを見て意見を調整して行くという、既成価値、既成事実の継承を軸とした同調主義から脱却を試みる政治家は、未だ中央政府の中には皆無に等しいものであり、相当な未来にわたって望み得るべき者はいない。
私は日本の政治家に期待するものは無い。徒に混迷を深めるだけである。
日本に於いては、むしろ民間人の方がもっとグローバルである。そして又現実主義である。
人間とは、実に一様には割り切れないものである。
他者を支配し、他者を排斥し、その命までも虫けらのように扱うこともあれば、自らの身を危険にさらし、犠牲にしてまで、他者を助けようとすることがある。
世界各地の暴動やテロ、侵略や戦争、また、災害等における救出劇等をニュース報道などで見るにつけ、知るにつけ、一様には割り切れぬ、人間の紛れもない姿を見るものである。
争う姿、助け合う姿、どちらも事実を報道している。どちらも疑う事なき人間の姿である。どちらか一つが人間の姿であって、他が人間の姿ではないというものではない。
一つ言えることは、人間は環境や教育、社会の状態、その他複雑な自己を取り巻く状況によって、ある種の姿に、ある種の行為に走らされることがあるのだと言うことが否定できないと言うことだ。
仮に今、ある種の社会対立の中で、棍棒で相手を殴り殺している人間が、全く違った社会に生まれていたら、生まれていないまでも、全く違った社会に留学したり生活の場を求めたりして、今いる社会に存在していなければ、その人は棍棒を手にし、相手を殴り殺したりしていないことは間違いない。
その人の行為の必然が、その人個人の独立性に基づき成されていると考えたとしても、それは周囲の環境や社会と全く無縁でいるものではない。
これを一つの命題と考えるならば、我々は、各個人や各組織、各地域、各民族、各国民等が、お互いに望まれぬ事を行わないような、行い得ないような要件を備えた社会を構築して行くほかにはないのではないか。
無論、それによって全ての人間が救われると言う理想郷が現れてくれるわけもない。
ただ、無用ないさかいや、無用な排斥や、無用な争いや、無用な殺戮が起こせないような構造を持った社会を、全てに行き渡らせることが出来れば、そこに住む人々の日常も、そうでない世界にある場合に比べて、良いものに成り得るだろう。
ただ、社会形態は、人間の本質を変える事は出来ないであろう。社会形態の変革に人間の本質の変革を期待することは的外れだろう。
ただ、社会形態が変われば、見たくない人間の本質を見なければならなかったり、逆に、望むべき人間の本質を交わし合う機会に恵まれたりするだけである。
無論それは大きな事だ。社会形態の変革は、そのために望むものと言っても過言ではない。
しかしながら繰り返して言うが、それは社会形態の変革が人間の本質を変えたのではない。
その社会形態に於いて、人間の本質のある部分が、より押さえられ、またある部分がより強く、より多く見られたと言うことに過ぎない。
しかし又、社会形態の変革が、人間の本質に変革を加えている事も、皆無だとは言えないだろうという感想はある。
より学究的に探求されることは、否定されるべき事ではない。むしろ望まれるべき事だ。
「人類が進むべき方向というものがあるだろうか」、という問いがあるならば、人類が進むべき望ましい方向は「ある」と答える事が出来るだろう。
理想論であるとかどうとか言うことではなく、人類の誰しもが、生活を脅かされず、家族や恋人、友人、知人達と、出来るだけ健康でゆとりのある生活環境を誰でも持つことが出来、共に支え合って朗らかに生きて行ける社会が世界中にあり、それが当たり前で自然な事であるという方向に進むべき事は、人類の人々に共通する思いであると信じる。
無論、個々の生活において、悩みや軋轢、争いは決して絶えることがあるはずはないものであるが、少なからずそれぞれが属する社会全体が、自ずと軋轢や争いを絶えず誘発し、多くの人がそれから逃れることが出来ない社会構造を有している社会環境よりも、個々人の自由を認めながらも、出来得る限りそう言ったことを防止しようとしながら存続する社会環境に身を置いている方が望ましいことは明らかである。
そう言うことがわかっているなら、そういう社会、そういう世界を築くべき時に、今なっているのだと言うことを私は言いたい。
新世界政府機構は、より実質的活動を目指す組織構造としなければならない。
また、各種機関に実効性のある力を保障すると共に、その力の適正な運営と実行が成されているかどうかという調査、審査、査察の活動が、より世界人類に対し、良好な機構整備の働きを高めるものとしなければならない。
しかしながらここに目指すのは、監視につぐ監視を重ねる窮屈極まりない世界ではなく、各事業、各権利、各権力が、より適正に機能しているかどうかということに対しての、一助となるべき構造を確立することである。
現代の高度化されつつある文明は、国民投票、人類投票を行う事・可能とする技術を持ち始めている。
無論実際に人類投票を行おうとすれば、考慮、整備されなければならない事柄は多く、それ以前に識字率を考えても、全人類による投票ということは、今すぐに実現できるというものではないかもしれない。
しかしながら、新世界政府機構は、全人民に直接意見を求め、全人民からの意見を活かす方向で施政を行う。そしてまた、認められた機密情報以外は全て公開し、秘匿されることが決定された機密情報においても一定年限を迎えた後は完全に公開されることによって、全人民からの意見と批判を受け、全人民の監視による不正の排除と正しい方向への推進を行って行く。
新世界政府機構が有する力は、全世界に対して圧倒的であるが、新世界政府機構は、全人民に対してガラス張りであり、人民を裏切らない組織である事を目的とし、実践する。
新世界政府機構は、誰かを利するためにあるものではない。誰も害されないためにあるものである。