新世界政府機構へ賛同される
「日本人」に対して
日本人為政者に根付く、懐古趣味、懐古的表現からの脱却に関して
※これは、各個人の歴史への興味、関心、研究を批難したり禁止したりするものでは勿論ない。
いかなるものに興味、関心、研究を持とうと間違いなく個人の自由であり、それを統制する権限も意図もない。
ただ、本活動を、過去の歴史的事象を追従したり、重ね合わせたりして行って貰うことはこれを禁ずる。その理由は以下のものである。
現代においてもよく、「維新」という言葉を使いたがる人がいる。
しかしながら、新世界政府機構に参画するのであるならば、「維新」及びそれに類する言葉や表現を使う事を、一切禁止させてもらいたいと思う。その理由を以下に記す。
日本に限っての事であるが、現代においても、よく為政者や社会活動家は、「維新」という言葉を安易に使いたがる。
所謂、明治維新の「維新」である。
維新には、「すべての事が変革されて新しくなる事」という意味がその言葉自体にあるが、日本において「維新」といえば、そのまま「明治維新」を指すものである事は、それを使う側も聞かされる側も、言外の事として心の働きに備わっている。
「維新」と言う言葉を使う者が、明治維新とは100%関係無いと言っても、その言明は誰も了解しえない。本当にそうであるのならば、違う言葉を使えばよいはずだからである。
「維新」という言葉の裏には明治維新、即ち、日本人が歴史上成し遂げた、無血ではないが、国家の大革命としては極めて短期間に、全土を焦土化させず、諸外国に付け入られる事無く、それまでの武家社会を根底から打破し、世界に通じる近代化した社会を構築した、日本史上稀に見る大革命という歴史通念が、必ずある事を否定する事は出来ない。
今日の日本は、太平洋戦争で完全に焦土と化し、全てを失ったところから再生された日本であるが、明治維新を今日の日本の発展と関係無いものとする日本人はいないであろう。
今日の日本の発展に、明治維新は欠く事が出来ないものであった事、もし明治維新がなければ、日本は今日の発展と全く違った、想像する事の出来ない異なった日本になっていたと考えるのが、日本人の内にある日本観であろう。
無論我々現代の日本人が、常に明治維新の偉業を忘れることなく日常を送っているわけではない。むしろ日常においては、明治維新は多くの歴史の中の出来事と同様に、我々日本人の日常に常に顧みられ話題とされ、評価されているものではないと言える。
しかしながら、何らかの機会に明治維新に触れる事があれば、そこには、新たにする明治維新への憧憬や、人それぞれの特別な感情が沸き上がり、他の歴史とは異なる、新たなる日本の夜明けのような、明治維新というものが確認されるものとなる。
先ほど現代の日本人は、日常的には明治維新とは無縁であるという意味合いの事を書いたが、それぞれの時代の歴史に深い憧憬を持つ者がいるように、明治維新や明治維新の立役者に深い憧憬を抱く人がいる事も述べなければならないし、遠い卑弥呼の時代の歴史から、現代までの歴史への憧憬の中では、恐らく明治維新への憧憬、明治維新に登場した人々への憧憬が最も多く、最も強いのではないかと思われる。
邪馬台国、大化の改新、鎌倉幕府、南北朝時代、応仁の乱、戦国時代、信長・秀吉・家康の覇権の変遷から、徳川幕府、明治維新、太平洋戦争、そして現代。
他にも勿論数え切れないほどの日本の歴史があり、あらゆる時代、あらゆる営みが、現代の日本人のそれぞれの興味の対象になっているが、我々が、その歴史を見る事で、現代と未来に直接夢を持つ事が出来るのは、やはり明治維新だけであろう。
他の歴史が、特別な階級や、覇権を争う武将や、軍部・政府によって、場当たり的に社会的権威者が民衆を大きなうねりに巻き込んだものであったのに比べて、明治維新も、多くは武士階級による社会変革であるが、その改革に奔走し命を賭け命を落とした者は、特別な身分の武士だけではなく、むしろ個人的な力は、民衆のものと変わらない者達によるものも大きかった。
そして階級身分に関係無く、欧米諸国の驚愕すべき国力を目にし、今の日本のままでは欧米諸国に分断されてしまう事をはっきりと理解し、欧米諸国に追いつき並ぶ国力を築かなければならない、単に軍事力だけでなく、日本社会の根本的な在り方の変革までが行われなければならない事を明確に気付き、その方向への幾つもの青写真が描かれ、なされるべき社会変革を、いくつもの屍を乗り越えて遂に行い得た、日本が初めて世界を目にして、その中で日本が、日本人が、分断され蔑まれ支配されてしまう事を回避する事を、自らの手で成し遂げた、日本の歴史始まって以来の、強大に立ち並ぶ世界を前にした、日本全体の大革命であった事があげられる。
歴史の講釈をするつもりではないので話を戻すが、日本の歴史の中で明治維新は、現代においても、日本人にとって大きな意味を持ち、「維新」という言葉は歴史上そこでしか使われておらず、その意味においても「維新」という言葉は、明治維新と無関係ではいられない。
明治維新と無関係な「維新」という言葉を使いたいなら、同じ意味合いの全く別の言葉を探してこなければならない。「維新」と使えば、どんなにそれを使う者が否定しても、必ず明治維新がその背後に存在してしまう。
例え、どれほど「維新」という言葉を用いる者が、明治維新への関連を否定しても、それを目にし聞く側は、明治維新になぞらえて、明治維新に憧憬して、明治維新を模倣してそれが用いられている事を喚起し、嗅ぎつけずにはいられない。
「維新」という言葉を用いる事に関して、日本人の心情にある明治維新への切っても切れないつながりについて書いたが、他にもその言葉を用いる事によって、同様に、暗に明治維新を漂わせる言葉がいくつもある。
そのうちの幾つかを取り出せば次のようなものがある。
「志士」「雄藩」「雄藩同盟」「薩長同盟」「大政奉還」「船中八策」「奇兵隊」「亀山社中」「海援隊」「陸援隊」「新撰組」「坂本龍馬」「西郷隆盛」「吉田松陰」「木戸孝允」「高杉晋作」「日本を洗濯」或いは「洗濯」。
「維新」を含めこれらの言葉や表現は、それを用いる側もそれを見聞きする側も、直結的に明治維新とそれにかかわった人々への関連を想起するものである。
NGワードというものがある。
予め用いてはいけないとする言葉だ。
実は、「維新」を始めとするこれらの言葉(もっと他にもあるが)は、新世界政府機構においてはNGワードである。
それは、前述したように、これらの言葉が用いられた時、必ず明治維新と関係づけがなされてしまうからである。
では何故、新世界政府機構において、今日の多くの為政者や社会活動者が好んで使いたがる「維新」やこれらの言葉が、用いてはならないNGワードであるかと言えば、その理由は2つある。
1つは、我々が行う新世界政府機構の構築は、全く新しい事であり、非常な困難や迷路や落とし穴があり、時代呆けした者では到底それを成し得る事が出来ないからである。
我々は現在を踏みしめながら未来に向かっているのである。過去に向かっているのではない。
無論過去の歴史から学ばなければならない事柄は非常に多くある。過去の歴史から学んでおかなければならない事も必ずある。
しかしながら、日本、殊に日本人において、「維新」と言う言葉・表現を用いる事と、明治維新という歴史事実の中から学ぶ事は、全く違うという事を理解しておかなければならない。
新世界政府機構を、まだ見ぬ未来に向かって構築し、本気で実現して行こうという時に見なければならないものは、今ある世界の姿と、我々が動く事によって変わりゆく世界の姿と、そこにある困難、そこにある障壁、そこにある惨状の回避、次に示す一歩、そこにある陰謀、そこにある覇権への見えざる手、そこにある今を生きこれからを生きる人々の望み、そこにある人類の未来なのである。
迂闊に明治維新や、明治維新の立役者達を思い浮かべ、よそ見をしていると、それだけで、この新世界政府機構の真の構築は叶わないものになってしまう。
自分を過去の誰かになぞらえている場合ではないのだ。未知のものに常に変革して対応する自分だけが必要とされるのだ。
明治維新と比べたり、なぞらえたり、その焼き写しを行おうなどとほうけて夢想していては、単なる自己満足、いやそれ以下にしか成り得ない。
叶うか叶わないかという事を行う、まず叶わないだろうという事を真剣に行う、行う中にこの命がどこまでで尽きるか分からぬ事を行う場合に、過去を見て夢想していては何も出来ない。
見なければならないのは、今と今後なのである。
日本人でこの新世界政府機構に携わる者は、これだけは理解しておかなければならない。
我々が行うのは、誰かが行った過去の何かではなくて、未来の新世界政府機構なのだと。
もう1つの理由は、「維新」だの「洗濯」だのと聞かされて、それを喜び、望み、期待する者はいないという事に気付かなければならないという事だ。
むしろこれらの言葉を使えば、そこで行われる事がどれほど意味を持つものであっても、ブレーキにしかならないという事だ。
私はかねがね、為政者や社会活動者が「維新」だの「日本を洗濯」だのという言葉を好んで使う事、平気で使う事、その無神経さに幻滅を感じ、むしろ気の毒にさえ思えてならなかった。
「○○維新の会」「日本を洗濯する会」等、当然明治維新を意識し、寧ろ恥ずかしげもなく堂々と示し、今龍馬や今西郷や今桂や今高杉を気取り、若しくは暗に自分や自分たちをそれに近づけようと胸躍らせ、得々とした、何も成していないにかかわらず既に英雄然とした、勘違いした無神経な輩を気の毒に思い、また愚かしく眺めざるを得なかった。
自分たちが行いたい事があるならば、本当にそれを行いたいならば、何故過去の何かと絡めず、過去の誰かと絡めずに、行いたい事だけを示し表現しないのであろうかと、まず何よりも先に疑問に思えてしまう。
例えばこんな例を考えてみればよい。
高知であれば、やはり坂本龍馬は英雄であろうし、郷土であるがゆえ、その憧れと敬愛は、他の地方に比べて格段に強いであろう。
鹿児島であれば西郷隆盛、山口であれば吉田松陰、桂小五郎、高杉晋作等、他の地で敬愛されるよりも、その郷土では遙かに強く敬愛されているであろう。
例えばその高知で、「私こそ坂本龍馬の生まれ変わりに他ならない」、「坂本龍馬の遺志を受け継げるのは自分だけである」いや、もっと端的に「実は私、坂本龍馬なんです」と人々に語りかけてみたらどうなるであろう。
尊敬されるだろうか、大切にもてなしてくれるであろうか、賛同し協力を得られるであろうか。
いや、そう思う人がいるとしたら愚かとしか言いようがない。
高知でそのような事を臆面もなく言い放てば、相手にされないどころか、下手をすれば龍馬の崇拝者に殴り飛ばされるであろう。
そして、殴り飛ばされても誰も同情しないであろう。誰もが、胸をスッとさせるであろう。
何故であろうか。
それは、高知の人が坂本龍馬を格別に愛し、それをけがされる事を許さない事と、出来る事なら自分が龍馬になりたいという深い憧れが、少なからず誰の胸にもあるからであり、その龍馬を敬愛する人に向かって「自分が龍馬だと主張する人」が、何の確証もなく、いかなる事実もなく、全く根拠のない無責任でいい加減な事を言っている事の腹立たしさに起因する。
龍馬を敬愛する人に向かって、「私、龍馬なんです」と言えば、馬鹿だと思われ、そう思われるより先に、敵意と怒りを向けられる事になるのは人間心理の必定である。
それに、考えてみても分かるが、大体、本当に坂本龍馬が今生まれ変わって存在していたとして、「自分が坂本龍馬だ」と吹聴するだろうか。
坂本龍馬はそのような人物だったのだろうか。
少なからず龍馬は、自分が坂本龍馬である事を吹聴して回るたぐいの人間ではなく、自分に何が出来るかを問い、自分の行う事を見極め、勝算を計算するよりも先に動く事を課していた人物であって、自分を吹聴し尊敬してもらおうとする人間とは対極にある。
西郷隆盛にしても、吉田松陰、桂小五郎、高杉晋作にしても同様である。
彼らの郷土で、自分は彼であると言ってみたまえ。同じ事が起こるのは想像するまでもない。
さてここで重要なのは、実はこれらの事は、彼らの郷土でなくても本当は同じだと言う事である。
「私が龍馬だ」「私が西郷だ」「私が松陰だ」「私が桂だ」「私が高杉だ」と吹聴して、本当ですかと驚いて尊敬し歓迎してくれる人は、この日本には実は一人もいないという事だ。
彼らの郷土ほど露骨で強い嫌悪と敵意は向けられないにしても、決して好意を向けられる事はなく、やはりそこに向けられるのは嫉妬と嫌悪と敵意に他ならない。
それを向ける者にも分からぬほどのごく小さな感情であるが、そこには必ず嫉妬と嫌悪と敵意がある。
今龍馬を名乗る事、匂わせる事。今西郷を名乗る事、匂わせる事。今松陰を名乗る事、匂わせる事。今桂を名乗る事、匂わせる事。今高杉を名乗る事、匂わせる事。
他にも明治維新の名だたる人物を名乗ったり匂わせたりしても、どこにも、誰も、それに好意を抱き歓迎してくれる人はいないという事だ。
むしろ、嫉妬と嫌悪と敵意が人知れず向けられる事を知っておかねばならない。
つまり、「今龍馬」を名乗り、匂わせ、気取る者は、その周囲の者、その向こうの見えざる数多くの人に応援や協力の心情を抱かせる事にはなり得ず、「今龍馬」を名乗り、匂わせ、気取る者に対して、むしろ「失敗すればよい」と言う言外の冷めた感情を抱かせる事にしかならないという事である。
「ドラゴンボール」という世界的にも有名な漫画がある。そこには「元気玉」という大きなエネルギーが描かれる。世界中の命あるものが、少しずつその「元気」を分けてくれ、それを集める事で強大なエネルギーが出来るというものだ。
「今龍馬」を名乗り、匂わせ、気取る事は、実はそれとは反対の「逆元気玉」、「悪意玉」を作っている事と同じ事になっている。
即ち、日本中のほんの僅かずつの「嫉妬・嫌悪・敵意」等を集めているようなものだ。
気付かぬうちに自分の真上に「負のエネルギー」、多くの人の、それこそ気付かぬほど小さな「負の感情」を集めているようなものである。
「維新」や「日本を洗濯」という言葉の使用においても同じ。
その言葉を使う事は、その意図に限らず、自分が明治維新の立役者の誰かである事を、誰かたらんことを暗に示している事と同じであり、それを聴く人は、その人が勝手に明治維新の立役者の誰かに成りきろうとしている事に、小さな腹立たしさや不快を感じずにはいられない。
即ち、それを使う人を応援しようという気持ちよりも先に、それを使う人に対する嫉妬、嫌悪、敵意がその人に対して抱かれる事になってしまうのである。
気付かぬほど小さな。
「維新」や「日本を洗濯」などと無神経に使う事が、それを使う者に対して、実はブレーキにしかなっていないというのは、こうした日本人の心情によるものである。
大事の前に、わざわざ人々の心情を害するものを持ち出してくる無神経さを、我々は反省しなければならない。
無論「今信長」や「今秀吉」「今家康」を気取っても、ブレーキにこそなれ、決してアクセル、動力には成り得ない。
まず、自分が歴史上の誰かではないと言う当たり前の事を、確かめ知っておかなければならない。
そして、歴史上の誰かである必要がないと言う事も。
以上の2点において、新世界政府機構に参画する人の内、日本人においては、「維新」だの「日本を洗濯」、「世界を洗濯」だのという言葉や表現は、絶対にこれを行ってもらいたくないのである。
行いたくて仕方がないというならば、新世界政府機構から離れて、何処かよそでやって欲しい。
ここで行う必要はない。
歴史的偉人の模倣。
彼を模倣し、彼が行ったことに当てはめて新世界政府機構を築いて行くことは、断じて行ってはならない。
一見同じに見える状況、条件、関係性であったとしても、同じに見えるのは雰囲気だけで、実は全く違っているのである。
かつてかの偉人が行った奇策を模倣して、彼に倣った判断、采配に酔い痴れるのは、
自己満足の被害が自分に留まる場合のみ、それと知って行えば良い。
人の命の選択の場では行ってはならない。
我々は、歴史の焼き直しをしているわけではない。
(当然のことであるが、これは、個々人の歴史的好奇心、探求心に制限をかけるものではない。 何に興味を持とうが各人の自由である。
自他共に認める龍馬狂、松蔭狂でも構わない。
但し、それを「新世界政府機構」と関係付けることは一切行ってはならない。 それは禁止させてもらう。
その事由は、上記に因る。)